明けましておめでとうございます

2022年01月01日

Notes 01:

明けましておめでとうございます。

戦後間もなく、伝統的な書道と距離を置いて新しい道を模索しようとする書家が日本に現れました。1950年代、彼らの活動は欧米のアーティストたちの関心を集めることになります。時は抽象表現主義の時代。アクションと深く関係していることなど、彼らと抽象表現主義の画家たちの間には共通点が多く見られました。両者の接点は国際的な芸術交流の典型として発展し、書は戦後の前衛運動として世界の注目を集めていきます。彼らは前衛書家と呼ばれ、書の展覧会が世界各地で行われました。やがて1960年代にハプニングと呼ばれる芸術運動が起こる中、書家はパフォーミングアーティストとしても活動の枠を拡げていきました。20世紀後半、第一世代とも呼べるこうした書家たちの多くは、筆と墨による一回性、偶然性が生み出す造形の妙を制作の拠り所としてきました。

その後、禅やサブカルチャーなど日本文化への関心が広がり、日本へのエキゾチシズムもあって書家が再び欧米の注目を集めます。折りからの国際化の波の中、彼らの多くは文化交流の舞台を中心に活動します。しかしこの第二世代は第一世代のスタイルを大きく超えることができず、現代アートの系譜に新しい足跡を残すには至りませんでした。

やがて時は過ぎ、しばらくの停滞期を経て、近年新たな動きが生まれています。いま日本では現代アーティストとして独自の道を拓こうとする書家が増えています。彼らの作品は第一、第二世代に比べてよりコンセプチュアルで、しかも多彩な表現に富んでいます。この第三世代の書家たちの多くは、そのユニークな作品の中に今を生きる時代性や社会性を内包させています。前例のないことに、コロナ禍にもかかわらずいくつかの現代アートギャラリーや美術館が彼らの作品展を開くようになりました。2022年、こうした動きが日本の書の歴史に新しい扉を開くよう願っています。

私たちは今、日々220億ものデジタルメッセージが一瞬にして地球を飛び回る時代を生きています。利便性とスピードの恩恵を受ける一方、その引き換えにかつての人間性ゆたかなコミュニケーションが失われつつあります。書は造形性と文学性を併せ持っている芸術です。そこには手で記されたメッセージがあります。このIT時代、世界中の人々がこの芸術を再発見し、日本の書がドメスティックからグローバルアートへと拡がっていくことを願っています。

追記

書家が現代アーティストを目指して「その先」へ進もうとする時、それまでの経験が活きるでしょうか。それとも逆に足枷になるのか。僕は両面あると思います。多数の作品を一気につくれるのは書家の強みです。また海外で発表する場合、書という独自性がプラスになることもあるでしょう。一方、足枷の方は手強い。書家には「この線質、この墨色を見ろ」といった技法重視の傾向があり、古典や師風を叩き込まれてきた学習方法も染み付いています。反面、概念的思考をしたり前例のないものを生み出すことには慣れていません。ちょっと変わった筆さばきや素材を使って「こんな面白いものが出来た」といった美的工夫に頼る作品はつくれても、それだけではなかなか現代アートの域に到達できない。僕の印象ですが、日本では個展に来た人の多くは技法の質問に終始するように感じます。「どうやって?」の質問はあっても「どうして?」の質問は少ない。もしそこが貸しギャラリーだと画廊も何も言ってくれない。すると作家もそれでいいと思ってしまってなかなか「その先」へ進めない。そもそも日本の美術教育は知識重視で、芸術についても教養や情操の一部として捉える傾向が強かった。教育現場でも現代アートを前に感想を語り合うような機会は極く少なく、絵を描かせても画題が先に決められていたり、一人ひとりの個性を重視するという評価軸も弱かった。僕たちは子どもの頃からそういう環境で育ってきました。ここにも「その先」へ進めない困難の一つがあると思います。では「その先」とは何か?第一は作家自身の物語のことではないか。どんな経験を経て作家になり、なぜこういう作品を創るに至ったかというライフストーリーを自分の言葉で語ることが出来るか。第二は作品の持つスタイルのことだと思います。いくら洗練されていても見たことがあるようなものでは駄目で、ひと目でその作家と分かる独自のアイコンがあるかどうか。そしてこの二つが、独りよがりでない普遍性と説得力を持っていなければなりません。そのためには、それが歴史的なアートの系譜を踏まえた上での新しい一手であるための広い視野、そして自身の問題意識を極限まで掘り下げるための深い思考が必要なのではないか。現代アートのギャラリーがお客さんを前にする時、彼らはその作家がいかにして今日に至ったか(作家の物語性)、その作品がいかに新しいか(作品の斬新性)、この二つを熱く語ります。書家が現代アーティストを目指すなら、腕を磨くことよりむしろ、四六時中頭を絞ることが大切なのだと思います。ここが「書を現代アートに!」と考える書家にとって正念場ではないでしょうか。