メッセージ
二元論を超えて
6歳から書を学びはじめた。数十年が経ち、自在に筆を操れるようになった。思うように書けるようになった時、転機が訪れた。古くなった墨をそうとは知らずに使ったら、墨が見る間に広がって未知の滲みが現れた。特大の紙を床に敷き全身で大筆を振るったら、そこに思いがけない線とかたちが出来ていた。巧みな手技は目論見どおりの100点をもたらしてくれる。だが偶然の介入は思惑を超えた120点を生むことを知った。水面下にある氷山のような、未だ見ぬ自分を探ることが出来た。
この経験から「自然」と「身体」が制作のキーワードになる。人間と自然、脳と身体の関係を考え直す機会になった。二元論は人間と自然、脳と身体を分断してきた。人間は主体であり自然は客体、自然は人間によって制御される。脳は司令塔であり身体は道具、身体は脳によって操作される。この常識に揺さぶりをかけたい。この二項対立を脱構築する作品をつくりたい。人間も自然の一部であり、自然とともにある。自然を制御するのではなく、自然に立ち還ること。脳も身体の一部であり、身体とともにある。身体を操作するのではなく、身体の声を聴くこと。
床にキャンバスを広げ、墨を入れたグラスを手に裸足で画面に踏み込む。筆を放棄することで身体を脳のコントロールから解放する。身体は太極拳の動きとなり、手足が円弧を描く。グラスの墨はパッとキャンバスに飛び散り、線とかたちが現前する。グラスを置くと墨は生き物のようにキャンバスの上をさまよい、溜まる。後はただ待つのみ。自分の仕事は半分まで、後の半分は素材がもつ自然の力にゆだねる。この時、キャンバスは自然現象を喚起する場に変わる。幾晩かして墨が乾くとそこに不思議な模様が浮かび上がる。まるで目の前に地球の化石が現れたように。その瞬間、母なる大地は何千年の時を超えて我々にメッセージを送る。
人間は大地が蓄えた炭素を燃やし続けてきた。
大地に眠る金を掘り続けてきた。
燃やされた炭素は産業のエネルギーになり、地球温暖化を引き起こした。
掘り出された金は財貨となり、富を象徴する存在となった。
そして地球は沸騰化し、貧富の格差は極まっている。
炭素も金も大地に還るべき時が来ている。

長い間、身体は脳の道具のように扱われてきた。そして今、IT革命が脱身体を加速する中、身体は道具としての地位も失いつつある。そもそも身体は脳の道具なのか?「頭脳/身体」の二項対立は暗黙のうちに頭脳を優位にする。だが、頭も身体の一部と考えると脱構築の別の景色が見えてくる。身体の声が聴こえてくる。これまで私は身体に備わる力を再認識することを意図し、身体の軌跡を画面上にしるすことで作品としてきた。さらには高速連写のように身体の動きを捉え、体動のダイナミズムを描く。この時、キャバスは身体の軌跡を可視化する場に変わる。
脳:お前は私の完全な指揮下にある。
身体:いえ、私はあなたの道具ではありません。
脳:何を言っているんだ!
身体:あなたも身体の一部だと言っているんです。
脳:冗談じゃない!ロボットがあれば、遅かれ早かれ私はお前なしでもやっていける。
身体:私の声を聴いて。さもないと、今度はあなたが将来A Iの道具になってしまいますよ。

「 いま、こ こ 」 の 証 し
異なる価値観の中に身を置くと普段気づかない発見をします。私は海外でたくさんのアーティスト達と知り合い、自分というものを知ることが出来ました。例えば、毎日何気なく使っている墨のこと。すられた墨は常に変化し、昨日と今日では違う顔を見せます。墨のにじみは変幻自在で思い通りにはいきません。しかし制御出来ないからといって忌み嫌うのではなく、むしろ積極的にこれを受け止めます。自分の力は半分まで、あとは他力に委ねながら制作を続け、最後に書きためた数百枚の山の中から一枚を選び、残りを捨て去って作品の完成とします。
一方、油絵具の発色や延びはその日によって変わることはなく、画家は一枚のキャンバスと長い時間をかけて向き合い、少しずつ前進しながら完成に至ります。環境に応じて変化する不測の画材、墨。対して常に安定した不動の画材、油絵具。「諸行無常」と「永遠不滅」、まるで東と西の価値観を象徴するようです。 そもそも西洋の考え方では「人」と「自然」は対峙しており、「自然」は「人」によって制御される対象となります。片や東洋の「自然」という言葉は「人」を含めた万物全体を示します。人も自然の一部。自然を敬い、自然を畏れながら、自然とともに生きていくという考え方です。私は彼らの製作現場を見ることでこのことに気づき、自分の立つべき位置を知りました。
ところで彼らは立て掛けたキャンバスに向かって描きますが、私は紙を床に敷き裸足でその上に立ちます。画面に向き合うのではなく、画面の中に自ら入り込み、手足を使ってアクションの軌跡を紙にしるします。こうすると頭よりむしろ身体が強く介在するので、思惑を超えた何かが起きることがあります。確かに自分が書いたのだがどうもその実感がない、でもよく見ると凄くいい、そんな感覚です。事前に青写真があると、どんなに出来が良くても結果は100点止まり。でも予期せぬ他力が介在すると120点の佳作が生まれます。頭で作り上げるものではない、それは手足からふと生まれるもの。いい作品とはそういうものだと思うようになりました。「書の本質はアクションにあり」です。
とりわけ、書のアクションには必ず起点と終点があります。ひとたび筆をとったら字画にしたがって一気に最後まで書くのみ、やり直しや後戻りは出来ません。書かれた線を順にたどれば筆がどう動いたか、時間の流れとともに読み取ることが出来ます。一方、私が海外で目にした抽象画の多くは、書きはじめから書き終わりまでうまくたどれないものでした。芸術には、時間に関わるものと関わらないものがあります。書は音楽や舞踊と同様、時間とともにある芸術です。私はこの経験から、見ることの出来ない時間をかたちある美につなげたいと考えるようになりました。
禅に「今、ここ」という教えがあります。過去は過ぎ去ったものであり決して戻らず、未来は未だ先のことです。過去を悔やみ、未来を憂いてもどうにもなりません。大切なのは自分が置かれた場所で、目前にある今を全力で生きることです。私は「今、ここ」に生きた証しとしてかけがえのないこの一瞬を筆線に残したい、思惑を超えた他力を借りながら唯一無二のかたちに結晶させたい。
自分中心、モノ中心で人々がすさんでいくこの時代、私の作品が少しでも何か明るい示唆になればと願っています。
書 の 特 質 と は ?
書の特質とはどのようなものだろうか? 書には「造形」と「意味」があると言われる。「造形」とは作品にみられる布置や形、線質のこと。西洋美学の井島勉によれば「書は文字の美術、造形芸術の一ジャンル」であり、また書家の鮫島看山は「書は線の美、文字という素材を借りて表現する線の芸術だ」と言った。書は文字を使った造形表現であるという考え方である。
画面は床に敷かれています。私は画面と向き合うのではなく、画面の中に自ら入り込んでいきます。腰を落とし、身体を少しかがめ、間をとりつつ、手足は円弧を描きます。太極拳の動きです。頭を使って文字を書くのではありません。文字を書こうとする身体の軌跡が紙面に残るのです。

書と時間性
書の場合、一旦筆を紙に置いたらもう後戻りは出来ない。一度書いた線を取り消すことは出来ない。後はただ前へ前へと書き進むだけである。文字を書いている以上、一画目から始めて最終画を書き終えたらそれで終わりである。スタートからフィニッシュまで、作品は一定の時間の中で時の流れに沿って現前していく。書について、音楽や舞踊との類似性を指摘される所以である。 書の優れた作品を前にすると、書きはじめから書き終わりまで、無意識に筆線を目で追いかけていることがよくある。その時、ここは勢いよく一気呵成に、ここは慎重にじっくりとなど、筆がどんなふうに動いていったか、まるで製作現場にいたかのように書き手の筆の動きを想い描くことが出来る。

書と自然性
パフォーマンスの直後、「出来上がった作品はどうするのですか?」とよく訊かれる。「乾いた後で引き取ります」と答えると「撤収までどれくらいかかりますか」とまた訊かれる。 だが実を言えば、拍手の後もまだパフォーマンスは続いている。紙に放たれた墨は、観客が去った後も生きもののように動いている。墨が完全に乾ききるまで、墨跡は刻々と変化しながらパフォーマンスを続ける。観客の方々は私が関与した前半部分を見たに過ぎない。 筆を置くと、墨は紙の上をゆっくりと滲みはじめる。乾ききると溜まりが紋を残す。私はこうした人の手の届かない作用を作品の中に取り込みたいと思っている。

墨のにじみや溜まりは自然が生み出す現象のひとつであって、書き手には制御しきれないもの。だが、制御出来ないからと言って排除するのでなく、逆に積極的に受け止めて、自然の力とともに作品を完成させていきたい。
これは、まだミラノにアトリエを設けて間もない頃のブログ。当時はキャンバスにアクリル絵具で作品を制作していた。
『キャンバスはアクリル絵具との相性が抜群です。でもアクリル絵具には墨のような「あそび」や「雑味」はありません。工業製品として常に均一で安定している反面、偶然性の入り込む余地のない素材です。なかなかこれに馴染めずに戸惑っていました。
先日、墨と相性が良さそうなキャンバスを見つけた。布地がきめ細かくて肌触りがいい。これをいつか試そうと機会を待っていた。
この一週間まるで梅雨のような天気が続いていて、昨日も雨の一日。アトリエの窓を全開放して部屋の中に湿気をいっぱいに取り込む。淡墨をそっとキャンバスの上に落としてみる。すると、たちまち墨がキャンバスの上を泳ぎだした。久しぶりにホームグラウンドに帰ってきた生き物のように。刻々とにじみとたまりが変化していく。窓は一晩中開けたままにしておく。翌朝、着替えももどかしくベッドから起きだす。作品はすっかり乾いていて、夜中に墨と水とがたわむれた跡が残っていた。』

墨と水が出会うと魔物に変わる。にじみやたまりは変幻自在で決して思い通りにはいかない。だからこそ飽きない。我を出し過ぎてはいけない。自分の仕事は半分まで、後の半分は素材がもつ自然の力にゆだねる。筆を置いた瞬間が完成の時ではない。素材に宿る自然の力を借りて作品を仕上げる。一方、西洋絵画は向かう方向が全く違う。特に油絵の場合、その日の気温や湿度で絵具の発色や伸びが変わってしまったら画材として不可ということになってしまう。彼らにとって技術とは自然を制御するものであるという考えが強い。 西洋の "Nature"という言葉は、"Man"に対する相対的な概念として存在する。そこでは、主体である「人」と客体である「自然」が対峙している。「自然」は「人」によって制御される対象になる。一方東洋の "自然"という言葉は、もともと人を含めた万物全体を示している。人は自然の一部。自然を敬い、自然を畏れながら、自然とともに生きていく。 私は自然の作用と寄り添いながら、あえて偶然の美を受け入れていきたいと思っている。
和訳:現代書家としての私のキーワード
1 現代における書の意義
1-1 人類史の劇的な転換点何千年もの間、人間は手で文字を書き記してきました。 筆記具は変わっても、手で文字を書く歴史は長く続いてきました。しかし今、文字はキーボードやタッチパネルで変換するものに変わりました。私たちは手書きの実用性が失われつつあるという、人類の歴史の劇的な転換期をいま生きています。
1-2 書が芸術である根拠美術評論家の中原佑介氏は「芸術とは本来の機能を失ったものである」と述べました。続けて、「墨と筆で書くという行為はその実用性をほとんど失ってしまった。これが書が芸術であるとみなされる根拠である」と言っています。これは、今こそ現代美術としての書を新たな視点から再評価する意義があることを示唆しています。このような観点から、私は現代書家として「身体」「時間」「自然」という3つのキーワードを大切に考えています。
2「身体」
2-1 書は凍ったアクションである床に敷かれた紙の上に足を踏み入れる。足を広げて身体を深く落とし、手と足で弧を描きます。すると私のアクションは立ち所に線や形に変換されます。あたかも 私の体動の軌跡が筆を通して紙に残されるように。書は凍ったアクションであると言えるのではないか。日本の詩人、大岡信は「書は踊りに近いもの」と言いました。東洋の踊りの多くは、腰を落として手足を水平に動かします。その動きは基本的にゆっくりとした円で構成されています。西洋では、たとえばバレエの場合、ダンサーは垂直方向に高くジャンプし、手と足を外側に勢いよくリズミカルに伸ばします。書の場合、その動きは東洋のダンスのそれに似ていなければなりません。あくまで水の流れのように中断することなく継続的に。
2-2 身体は脳の道具ではない私の作品は頭よりも身体に依っています。あらかじめ頭が描いた設計図がある場合、たとえ完璧に作業を進めたとしても、その設計図に基づいた結果は100%にしかなりません。でも自分の身体に潜む予期せぬ力が加わると、120%に達する極上の作品が生まれるかもしれない。それは、私たちの身体が脳の道具ではないことを示唆しています。 私の作品は頭を使って作り上げたものではなく、むしろ手と足を通して現れたものです。 画家の場合、あらかじめ青写真を持っていて、長い時間をかけて一枚のキャンバスに向かい、毎日少しずつ進めて完成に至ります。 一方、私は次々と作品を作ります。1つの作品にかかる時間はわずか数分ですが、これを何週間も続けます。積み上げた何百ものピースの中から最後に一枚だけを選び、残りは捨て去ります。
3 「時間」
3-1 時間の流れとともに作品が成立する紙に筆を置き、書き順に従って書き始めると、もう後戻りはできず、やり直すこともできません。アクションには常に開始点と終了点があります。完成した作品を見れば、書き始めから書き終わりまで、私の筆の動きを想像することができます。時間の流れとともに作品が完成するという言い方も出来るでしょう。芸術には時間に関係する形式もあれば、時間に関係しない形式もあります。書は音楽やダンスと同様、時間と結びついた芸術形式です。日本の哲学者、西田幾多郎は「書は凍った音楽である」と言いました。
3-2「今、ここ」禅には「今、ここ」という教えがあります。過去は過ぎ去り、二度と戻ることはありません。未来はまだ見えません。変えられない過去を悔やんだり、まだ来ない未来を憂いても無駄なことです。大切なのは「今、ここ」を全力で生きること。この思いから、私は作品を通して「今、ここ」を生きた証を残したいと考えています。かけがえのない「今」を書という形で結晶化させたい。
4 「自然」
4-1 自然と共生する筆を置くと、墨はゆっくりと紙の上に広がり始めます。私にできることはただ数晩待つことだけです。墨が乾燥し終わると紙の上に独特の模様が残ります。 墨の広がりは自然現象です。それは予期せぬものであり、人間の手では制御できません。たとえ制御できない現象であっても、それを作品から排除するのではなく、むしろそれを積極的に受け入れ、自然の力とともに作品を完成させていきます。墨は油絵具やアクリル絵具とは素材が異なります。墨は常に変化しており、昨日と今日では異なる様相を示します。
4-2 人間も自然の一部西洋文化では「人間」が主体、「自然」が客体であり、自然は人間によってコントロールされるものとされます。一方、東洋文化では「自然」という言葉は人間も含めて創造物全体を指します。人間は自然の一部であると考えられています。この定義の違いが、西洋における「自然を守る」と東洋における「自然に還る」という表現の違いに反映されています。私たちが今考えなければならないのは、「自然をどのようにコントロールするか」ではなく、むしろ「自然のために私たちをどうコントロールするか」ではないでしょうか。